TOPみんなでつくるリネアストリアウィッグは、わたしと咲く。篠田あきよ「誰かの人生を照らすように生きていきたい」

長野県飯田市でフリーアナウンサーとして活躍しながら、109歳の市内で最長寿のおばあちゃんの介護のキーパーソンを務める。
司会の仕事時に、シーンに応じてヘアスタイルをパッと変えられるため、ウィッグを愛用している。

109歳おばあちゃんとアナウンサー

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長野県飯田市でフリーでアナウンサーの仕事をしながら、109歳になるおばあちゃんの介護キーパーソンをしています。役割としてはケアマネージャーさんと相談しながら在宅介護の方針を決めたり、通院できない本人の代わりにかかりつけ医に行ったり。例えば今だと新型コロナのワクチンをどうしようかとかそういうことですね。

普段は結婚式やお葬式などでアナウンスや司会の仕事をしたり、選挙カーでウグイス嬢をしたりもします。ウィッグってとても便利で、例えばお葬式が終わってすぐに結婚式の司会!って時もパパッとウィッグをチェンジすることで自分のスイッチを切り替えられたり。おばあちゃんも「今日のカツラはいい色ね」と話題にしてくれます。高齢者のお世話に声の仕事と、南アルプスの山々を臨む空の下、走り回る日々です(笑)。

決断

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県外の学校を卒業後、地元のケーブルテレビ局に就職しました。アナウンサーとして、地域の特産を紹介したりお祭りの中継とかコンテストのナレーションとか、ロボコンの実況中継もやりましたね。色々な場所に行って色々な人に話を聞き、伝える。そんな「声の仕事」は奥深いな、とその頃はなんとなく思っていました。

28歳の時、それまで元気だった父が突然倒れました。意識のない状態が続き、母まで気を病んで体調を崩してしまって、これはどうしようかと。社会人としてこれからという年齢を迎えていましたが、仕事より家族のほうが大切! と、勤務先を退職し両親のそばに寄り添うことに専念しました。父の入院先や入所施設を往復する日々で、痰の吸引をしたりマッサージをしたり。寝たきりでも、聴覚、耳は聞こえているはずだからと色々話しかけていました。もう答えは返ってこなかったんですが。

最初の数ヶ月は奇跡を願っていました。でも段々厳しい現実が見えてきて。「このままかもしれない」が「このままだろう」、「もうずっとこのままだ」と、ゆっくりゆっくりとあきらめていった感じ。

仕事も無職、貯金も尽きていく、回復の望みもない。「お先真っ暗」とはよく言ったもので、一時は本当に明日が見えない毎日でした。6年後、父は63歳で亡くなりました。やり切ったという思いと、これもやれた、あれもやっておけばよかったという思いが両方ありましたね。すごかったのが弔問客。なんと1200人も父のお葬式に来てくれたんです。

父のこと

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私の父、靭彦は新聞記者をしながら飯田の街に大好きだったラグビーを拡めた人なんです。ラグビースクールを設立して最初はたった10人の弱小チームから、日本代表の選手を何人も輩出するまでに。他にも多趣味で、長野市発祥の「早起き野球」(出勤前など早朝に野球をする)を飯田で始める中心人物になってみたり。とにかく仲間が多い、仲間のために、スクール生のために、地域のために何かをするんだって、エネルギーを燦々と注いだ人だったんです。だから最後のお別れの場に1200人も集まってくれたのだと思います。

父の遺品整理をすると本とノートばかり。金銭的な財産はあまり残さなかったけど、お金じゃ買えないものをたくさん残していった人生だったんだと改めて思いました。 後悔しているのは、父が元気だった頃にもっと仲良くしておけばよかったなというか、一緒にどこかに行ったり、父の話を、声をもっと聞いておけばよかったと。私は二人姉妹の二女なんですけど、本当は父はラグビーとか野球とか他にもお相撲とか落語とか、好きな事を一緒にやってくれる男の子が欲しかったのかな。自分の「彦」の字をとって「昌彦」という命名書まで用意して、ベビーグッズも全部男の子ものを揃えていたとかも聞いたことがあります。父には、私はどう見えていたんだろうかとか、少し考えたり。

断捨離

篠田あきよ様の写真
篠田あきよ様の写真

ある日、自分の所有物をひと部屋に全部ぶちまけたんです。服から化粧品からアクセサリーから何から何まで。カラフルなそれらを見下ろしながら、自分の目にその全部を見せつけて考えたんです。「私はこれだけのものを所有しているけど、私はそれほどの器だろうか。これだけの物に埋もれてまみれるほど、自分の人生は暇なのか?」って。そして絶対に必要なものだけを残して、あとは断捨離したんです。

父のこともそうですし、他にも私の大切な人を亡くしたり、ということもあって自分だけじゃない、他の誰かの分も私が生き抜きたい、そんな人生を選択したいと思ったんです。そう生きる為に、必要なものだけを残したら、あとは全部さよならしようと。

おばあちゃんのこと

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本当は109歳のおばあちゃんとは直接の血縁者でも家族でもなく、戸籍上は「他人」です。私はいわゆる「遠縁」。本来であれば、おばあちゃんの実のお子さんとかお孫さんが近くにいられればいいのですが、複雑なご事情もあってか「もうおばあちゃん施設に……」って人もいたんです。でも認知症もなくてご飯も自分で食べられる、しかも自宅で過ごしたいって望む人が介護施設に入るなんてとんでもないって、私とケアマネさんで話し合いまして。そんな経緯で私がおばあちゃんの介護キーパーソンになりました。

私のことを「あきよちゃん」って呼んでくれて、一緒にご飯をたべたりテレビをみたり。ビールのスーパードライを買っていくと喜びます(笑)。クリスマスには一緒にコスプレをしたり。きっと本当は、実のお孫さんとかにも会いたいんだろうけど、コロナ禍ですし気を遣ってくれてか、あまり言わないですね。常に感謝の言葉と、「私は幸せだよ」ってそう伝えてくれる人。大正2年(1913年)生まれで戦争とか苦しい時代もあったと思うけど、そんな話よりも今日の話、今の話。おばあちゃん、飯田市の最長寿なんですけど、長野県一、ゆくゆくは世界一、ギネス記録を狙ってる、というのが、おばあちゃんの「今」なんです。※2022年8月当時

後悔しない選択肢はない

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長い人生、どの道を選んでも、必ず後悔はあると思うんです。選ばなかった選択肢に思いを馳せることもあるだろうし、全く後悔しない選択はないなと。でもその中で、自分に嘘はつきたくない。後味が悪くない選択、生きていて後ろめたくない選択をしたい。おばあちゃんの在宅介護を決めた時も、自分の時間は少なくなるけど、それが自分にとって一番後味が悪くない、ベストな選択だと思えたんです。見上げればいつも、お天道様に胸を張って生きていられる、そんな自分でありたいと。

これからも「話す」仕事を通じながら、スポットライトを浴びる側よりも、誰かの人生に明かりを照らすように生きていきたいと、そんな風に思っています。

writer:Murase Junpei

メッセージ

七難を隠すどころか、七難すら強みにして下さる。それが、リネアストリアさんのウィッグ。